History

1984年

 シンプルなサウンドが好きだった頃、 始めて、生ライブにつれていってもらう。 『14カラットソウル』アカペラメンバー。

 当時、売れていなかったメンバーで、お客も、500人のスタンディングで目の前で、生のアカペラそれも、当時、気に入って聴きまくっいたCDそのまんまだったので、感動していた。

 この時、シンプルなアカペラのサウンドの魅力はなんなのか、興味をもつことになるきっかけに。

1985年

 音楽に関する興味に変化があった時期。 マイケルジャクソン、スティービーワンダーなど黒人の音楽に興味をもち始める。

 この頃、いろんな、黒人音楽Soul-Musicに、はまってしまう。同時期、いわゆるフュージョンと言われる音楽にも、興味をもっていた。

1986年

 アルトサックスを学ぶ。 ほんとうは、ソプラノが欲しかったのだが、始めての人には難しいという情報で、アルトサックスを始める。

1990年

 ブルーノート大阪(現在、ビルボードLive大阪)で始めてのJazzを聴きはじめる。

 (ほとんど毎日)なぜ、毎日生演奏が、聴けたかというと、少しさかのぼると、黒人の音楽を興味を持ちはじめて、この感覚のもとはどこから、、、と、探し続け、 いきついたのが、Jazzでしたが、まったく無知識の私にはとうてい、何を(CD)買ったら良いのか、、、、

 その時、テレビの番組で、大阪に、Jazzの演奏が聞けるお店ができたと、じゃ~、中で働かしてもらおうっていうのが、キッカケで、たまたま、人出不足で、入れました。 ほとんどOpening Staff として、しかし、数日遅れで入ったので、最初の半年ぐらいは、皿洗いでしたが、かすかに、聞こえてくる『音』が、最高でした。その当時は、ほとんど、ミュージシャンは、ジャズや、フュージョンでした 。

1992年

 ソプラノサックスを使い始める。 このころ、やっと、念願のソプラノを!!きっかけは、安くで購入できる場所を人から聴いたので。

1993年

 リーガロイヤルホテルにて、結婚式の披露宴会場での、演奏。当時、生の管楽器の演奏をwedding会場で演奏した人はいなかったような、、、、 演出も若いながらに考え、演奏を終えてから、大きな歓声につつまれたことを今でも、覚えています。

 このころは、まだ、作曲できなかったので、たまたま、ある有名、ソプラノサックス奏者の方が、wedding songという名のウエディングソングを発表したばかりだったので、その曲を演奏しました。

1994年

 音楽活動や、研究をつづけるうちに、 色んな、CDのある部分にこの人の名前があり興味をもっていた、その人が、デビッドフォスター。この年、そのデビットフォスターのJT Super Producers’94という企画のコンサートに出かけた。20人弱ぐらいで、出かけたのですが、チケットのほとんどが前列の方で、2名だけ、後ろの列なので、ジャンケンで、負けてしまった私は、当然、うしろになってしまった。

 しかし、手配してくれた、関係者の人がそれでは申し訳ないので、バックステージのパスを私にくれた、直接、会えたのだ!! もちろん、英語の話せなかった私は、通訳の人についてもらったのだが、何をはなしていいのやらもったいない気持ちでいっぱいのまま、サインだけ、ちゃっかりもらって、帰りました。

1995年

 渡米する為のお金をつくるべく、力仕事をする。

 その時、知り合ったペルー人と仲良くなり、陽気な、スペイン語の雰囲気を味わう

1996年

 フロリダ州マイアミへ(約一年) 英語は、いずれ、私にとって、ビジネスチャンスになると信じて、日本人がいないと言われた。マイアミへ、始めての一人暮らしと、始めての車の運転が、海外で!!

1997年

 帰国、

 どこからの情報か、帰国をした情報をしらさらた、会社から、もう一度、働いて欲しいと、また、一年以上、約2年間 働き、つぎすべきことの、資金づくりを!!

 DTM(デスクトップミュージック)を学ぶ 。 この年、すごく、気になったアーティストでもあり、プロデューサーでもある、マーカスミラーの魅力に、作曲をしたくなっていた、その時、たまたま、テレビで、、 おじーちゃんが、パソコンで曲を創っていたのを見てしまった!!おおっ!!これだ!!

 すぐ、お金をためて購入するが、パソコンの使い方すら、 電源の入れ方すら、わからない。これでは、いけないと思い、DTM(Desk Top Music)の学校を見つけ、約一年間、通った。

 この頃MAC Fan EXPO ’97が開催され、そちらの出展されていた企業の中にデジタルハリウッドがあり、映像の学校に興味を持ちはじめた。

1998年

 DTM(Desk Top Music)の学校イベントスプリングコンサート にて、最優秀賞を!

1999年~

 DTMの助講師をしながら、SOHO として音楽制作、イベント演奏。仕事の探し方がわからなかったのだが、無意識に、おもうがままに突き進んだ時であった。 テレビ大阪のイベントインフォメーションのTVCMのBGMを製作など。

2000年

 映像作品制作者の為の音の編集をいわゆる、サウンドエンジニアとして、製作。

2001年~

 SOHO としてブルーノート大阪(現在、ビルボードライブ大阪)で映像編集。wedding song オリジナルを製作。

2002年

 映像製作側からの依頼で、イベント映像のBGM製作。

2004年

 新築マンションのラジオCM用のイメージ曲を製作

2005年

 ファーストアルバムを2005/01/25に発売、

 アルバムタイトル『TWO POINT』

 同年、始めてのアルバムを出発点に『雲州堂』にて、ユニット seigo & amano の CASQUETTEライブ活動開始する。

 二つの出会いがある、一つ目が、『雲州堂』対バン相手がいくらちゃんという、すご腕のギターリストに出会った。

  同年夏、その人と、セッションを行い、彼のNEWアルバムのジャケット写 真撮影とジャケットデザインを手掛ける二つ目の出会いが、『雲州堂』店長matuokaさんからの紹介により、cozy orchestra の リーダーと出会うことになる、2005年で、彼らのメンバーと数多くのライブをこなすことになる。

 京都FM81.8 MHz「fm GIG」に同年、10/22、cozy orchestraのメンバーの一人として、出演収録に参加収録(2006年に放送)

2006年

 1/8 に、『雲州堂』3周年記念にて cozy orchestra のメンバーとしてライブに参加、大きく盛り上がる。

 2/9に、京都造形芸術大学 空間デザイン学科 の 企画代表 MANA さん が取り仕切る、企画 [LOZENGE] にて、cozy orchestra のメンバーとして ライブに参加、 色んなアーティストと接触。→遊火、Ladys Dancers、Mens Dancers、Phat Beats、Pantomime(yousuke ikeda)すごく、楽しくいいイベント企画で、 企画者の力に感心させられる。

2007年

 この年は、cozy orchestra の”セッション”メンバーとしてライブに参加 バンドのリーダーや、皆さんのおかげで数多くのライブをすることになる

2008年〜

 ※この年から音楽活動を休止する。

 以前働いていたブルーノート大阪(現在、ビルボードLive大阪)の先輩にお世話になり、ゴスペルスクールの印刷物のデザインと印刷、映像撮影、映像編集、DVDオーサリング等、仕事を

 【2011年頃】まで、続けさせて頂く、ゴスペルとブルーノートの先輩のおかげで、色んな製作に関わることができ、良い音楽や先生やスタッフの方々に関わらせて頂きました。人の声とは力のあるもので、楽器に負けないパワーのある方々でした。先輩には本当にお世話になり、今も感謝しています。

2009年

 結婚、、、以前務めていた、新聞社のボスのお知り合いで話家さんのご紹介で食事会にて

 【2007年頃】知り合うことになり、その後、結婚。

2010年

 2008年頃からの仕事、印刷、映像撮影、映像編集、DVDオーサリング等、製作活動を仕事として活発に行う。

2011年

 人生の転機がおきる。。。。

 【2011年11月】妻と私の実家に食事へフグを食べる、帰って自宅で、妻が身体に痛みを伝えもだえ苦しむ、妻に『救急車を呼ぶよ!』と伝えると、『サイレンがいやなので、もうちょっと待って』としかし、苦しみ、痛みがおさまらないため、『やはり呼んで!』と、すぐに電話をし、なるべくサイレンを鳴らさず来て下さいと伝え、救急なのでそれは無理と言われたが、なるべく、近くでは、鳴らさないで来てくれた。

 救急病院で診察が始まり、レントゲン等撮ってもらい、診察の時には、痛みがおさまり、、、夜間の救急のお医者さんは若い方が多いところなので、詳しい診断結果は、後日、お知らせしますと言って頂き、 帰りは、二人、歩いて帰れる程、元気になっていた。なんだったのだろうか???と思いながら、、、

 後日、病院へ行き、病院の先生の話しを聞くため、何時間も待ち、(忙しい??)

 来て頂いた時には、紹介状の封筒を持ったエラい人?が来られ、病名は言えませんですが、ちゃんと見てもらう必要があるので、紹介状を書かせて頂きました。病名は言えませんが、こちらの病院ではベットがあいてないため、違う病院へ行っていただけないかという、おはなしでした。何か深刻な表情が見えたので、私達は不安な気持ちでいっぱいに。。

 帰ってから、救急電話の時に相談にのってもらった電話番号へかけ、事情を説明し、大きな病院を紹介していただき、さらに、あちこち調べた結果、そこが良い事になり、病院へ、、、

 診断結果、、、ある病気の末期患者という結果を知らされた、、、妻は、余命まで訪ねてしまい、、聞いた家族は呆然となってしまう。その晩、二人で泣きました。妻は自分の身体のことより、自分(夫)の将来のことを気にかけてくれ、色んな話しをしました。(涙)

このことから、更に夫婦の絆が深まり生活することになりました。

2012年

 個人でのお仕事は、作業時間もながく、色んな面で、妻の病気のことを第一に考えると、断念し、企業へ就職することにしました。

 就職活動をしながら、せっかくなので、その頃、職業訓練(生前の妻が進めてくれた)で新たな事を覚えようと申請し、就職活動、、、職業訓練の面接などを終えるまでに、何社か面接をしたのですが、いろんな意味で良い所はなく、そんな最中、職業訓練先から、申請許可がおり、数日後に職業訓練が始まる直前に、(私が一番、良さそうな会社で社長だなと思っていた会社)に、一度、断られたはずなのに、私の職歴を見て覚えてくれており、違う仕事作り、1週間くらい後に電話で進めてくれました。なので、訓練より、妻の事を大事にできる環境をつくるべきだと思い、訓練は断り、あっという間に仕事が決まってしまいました。

 【2012年3月】その会社から出向ということで、とある百貨店の印刷物を手がけている会社のデータのバックアップ作業員として配属、膨大なデータをバックアップしてゆく仕事でした、一ヶ月でバックアップの作業のマニュアルを作成しその後、移動、移動先は、、、

 【2012年4月】食品関係だけを扱う部門の画像処理作業この時、会社の事情により(火・木・金)の三日間の出勤になり、出向元の社長は色々とあやまってくださり、私は、 妻の病気の状態が悪いので、休みの日は病院へ行けるので逆に助かりますとお礼を言って、病院へのお見舞いと仕事の両立をしながら一人の生活を続けていた、

 【2012年7月】また、移動になった、今度はフル出勤に、この頃、妻の病気は一旦落ち着いていたので、移動になることを受け入れた。移動先は、印刷部のモノクロ印刷である、デジタルのアドビ製品からは一旦離れ、ひたすら、ゼロックスのモノクロ印刷機の使い方を覚える事になる。

2013年

 引き続き同じ部署で、さらに、名刺のデータ製作を任命されるが、モノクロ印刷と両方することになるので、仕事が更に増えることになる。

2014年

 引き続き同じ部署で、名刺のデータ製作とモノクロ印刷を行う。

 この年、モノクロ印刷のパートナーが病気がちになり、モノクロ印刷の仕事が多くなり、実際の自分の持っている仕事も更に増え(名刺データ作成、モノクロ印刷、バリアブルデータ作成、簡単なDTP、小冊子PGのページものデータ作成)という作業が困難になってくる。

 【2014年9月6日】、忙しい中、人がいない状況でも、必ず、リフレッシュ休暇を毎シーズンとらせてくれる会社の仕組みを利用させていただき、まだ、すごく、元気にいてくれた妻と二人で、石垣島へ1週間行きました。すごく妻は元気で、帰っても、『石垣にまた行きたいね?住みたいね?』って、二人で話しながら、帰ってからも話していました。

2015年

 引き続き同じ部署で、名刺のデータ製作とモノクロ印刷を行っていたが、 【2015年3月】モノクロ印刷のパートナーが体調不良のため退職され、モノクロ印刷メインで作業をこの頃からはじめることになり、 今までは二人体制のモノクロ印刷の休暇時は交代で作業していたが、一人になってしまい休みにくくなりそうで不安を抱えながらも、

 【2015年4月】実際の自分の持っている仕事の(名刺データ作成、モノクロ印刷、バリアブルデータ作成、簡単なDTP、小冊子PGのページものデータ作成)という作業がさらに困難というより、不可能である状況を想像しながら、モノクロ印刷を作業しつづけている。

 【2015年5月】妻は元気な状況をキープしていながらも、何かあったら、すぐに、駆けつけるつもりで、あの頃から、ずっと心とどめながら、この時に抱えていた仕事が何かあった時のことを考え、直接相談したり、間接的に話が通るようにお願いしたりしたり、仕事場やお客様にご迷惑おかけしないように、人手を増やしていただくように、声をかけつづけていました。 【2015年7月頃】、妻は自分で呼吸しくにい身体になってきていた、疲れやすく、歩いてすぐに、息ぎれする状況、

 【2015年7月末頃】、妻はこの時期、片方の視力が急に悪くなり、、、、病気が、目に転移していることがわかり、目の放射線治療を行なってもらう。

 【2015年8月初の頃】、呼吸しにくいので、酸素ボンベを使う生活が始まる。この間、仕事先は人手は、やっと増えたが、経験者でないため、(もうこの人しか、私は頼れない)できる限り、印刷機の使い方や案件に応じての印刷方法を説明した。

 【2015年8月末】、妻の状態が急変した、それは、脳の方に病気が悪さし、妻の言ってる言葉がおかしくなった。すぐに、妻のお母様に連絡し来ていただき、相談し、入院。

 もう、この時には、仕事はできない状況なので、現場にお任せした。できるだけのことはしたので、あとは、妻にずっと尽きそいたかった、、、、そうさせてもらい、妻のお兄さん、お母様、私で、約2週間、つきそった。病院はできる限りのことはしてくれた、わたしも、できる限りのことはした、脳に転移したから、、、、もう、わたしのこと、名前なんか、名前で、読んでくれないと思ってたら、いっとき、『あまちゃん!!!』って、言ってくれて、すごく嬉しかった。、、、ほとんど寝ずに実は看病し、夜中、病室で私に、大声で『だいすき〜!!』って言ってくれたの、本当に嬉しかったと同時に、迷惑にならないか必死だった。でも、ほんとうに、あのこらしい表現で、とてもうれしかった。

 【2015年9月6日】、とうとう、病室の妻は、、、、。 結婚生活6年間、出会ってからは、8年くらいになるのか、、、短く聞こえるが、本当に、ギリギリまで元気でいてくれて。明るく人に優しい女性でした。

そして、私自身、今まで経験したことのない、悲しみ、喪失感、孤独感と向き合って、生活しはじめる。

2016年

 なんとも、表現しにくい新年を迎える。 この年、仕事の復帰をと試みるが、思った以上に喪失感がで(出勤時間の駅の階段の上り下りにまったく足に力が入らない状態)のだった為、思い切って、忌引きの為の2週間の休職いただいていた後、思い切って退職させていただき、心を元気にさせるために(傷病手当をもらいながら、)じっくり、治すことに専念する。悲しみともあえて向き合い、孤独感ともあえて向き合い、自炊も苦手ながら、少しづつ覚えながら、ゆっくり生活しながら、心を整える期間に使いました。

お勤めさせていただいた、会社の社長様は本当にいい方で、退職後も、常に私のことを心配していただき、退職直後のことや、社会復帰後のことまで、本当に気にしていただき、街中でばったりお会いしても、温かい言葉をいただける、すばらしい方でした。

 【2016年9月6日】、この日に決めて予約していた石垣へ独り旅へ、二人の思い出の場所をあえて行き、自分の思い出とあえて向き合ってきました。(2014年の同じ日に石垣に行き、2015年の同じ日に妻が亡くなったのが、偶然とは思えないので、2016年の同じ日に、心の整理をするために、独り、石垣へ)

2017年

 昨年、身体も心も休めたおかげで、少し元気になり、まだまだ両親とも元気でいてくれている間に、心から元気になるためには必要な(自然の中での生活)行動を実行するために準備や勉強をしながら、生活。

 人が、力強く生きていく為には、(不便な場所での生活を経験しないといけない)と考えて、行動、準備などをしていた。

2018年

 計画していた、沖縄の離島に移住する。両親には、伴侶の亡くした経験をしたのは、両親より私が先に味わってしまい、元気をなくしてしまっていた自分を元気にするため、了解を得て、行かせてもらった。

 母に再確認し、本当に、行ってもいいのか?確認したのだが、『あなたは、十分、色々苦労したから、やりたいことしなきゃだめだ!!』って言ってくれた、泣けた。

 5月、沖縄の離島、久米島に到着。住所が、こちらの島でなければ、仕事が離島は見つかりにくいので、来てから、探す作戦からのスタート。

 結局、時間がかかったが、とりあえず働く場所が(7月)見つかり、大阪の自宅(夫婦で住んでいた場所)を断捨離から引越し準備に入る予定だった。

 自宅(二人で住んでいた家)の断捨離と引越し準備に3ヶ月くらい考えていたのでだが、急いで、来て欲しいとのことで、(8月末)大阪の家そのまま、家賃払い続ける形で久米島へ。

2019年

 正月、大阪のマンションの家賃がもったいないので、引越手続きや色々片付けに、大阪へ一時的に戻る。いわゆる(初)断捨離生活がはじまる。

 一月末、片付けが済み、想い出のつまった(大阪の)家から出て、久米島へ働き始める。念願の沖縄離島の景色で、心癒されながら、生活する。

 長く感じるが短い久米島の生活の中、大阪の入院して、出れない患者さん(亡き妻がお世話になった癌ともだち)へ、綺麗な景色を送り続けながら、自分の景色で元気になっていた。

 そして、沖縄離島生活も少し慣れてきて、夏が過ぎかけた8月、母が亡くなる。

2020年

 昨年、母が亡くなり、今年(一月)に、あと追うように、父が亡くなる。 実家大阪の家にだれもいなくなってしまったので、整理しに、戻る予定を一月末にたてる。